まるで底のない沼に堕ちていくようだ
もがけばもがくほどに足は絡まり抜け出すことが出来なくなる
足掻いて手を伸ばして
―堕ちていって
その先には一体何が待つのだろう
淵に咲く華
緑が芽吹く季節の訪れ。
木々は青々とした葉を茂らせ、太陽の暖かな日差しを受けては、手入れの行き届いた芝生の上へと木洩れ日を落とす。
ブーゲンビリアの彩色が見る者の目を楽しませる庭を望む、ある屋敷の一室で一人の少女が立ち竦んでいた。
肩に付く程度の金の髪は眩いばかりの輝きを放っているのに、そこから垣間見える表情はその輝きを拒むかのように硬い。
普段の彼女を見ている者が見たら驚くほど。
もしもこの場に以前の彼女を知る人間がいたら皆こう言うだろう。
カガリのこんな顔は見た事がない、と。
それくらいに、人に愛され慕われたカガリと、今こうして一人顔を俯かせている彼女には歴然たる違いがあった。
砂漠を駆けたしなやかさはそのままに、所々になだらかな曲線を描いた体躯からは、大人への階段を上り始めた者が纏う
仄かな香りを漂わせている。その体を覆う衣服の端を掴んでいる手は、操縦桿や銃を握った過去などなかったかのように
綺麗に手入れされた。薄っすらと色付いた爪先に触れたカガリは、目には見えない何かに耐えるように、きつく自らの手を
握った。
触れ合った両の手は湿り気を帯び、それに比例して口はカラカラに渇いている事を知る。
指先からは嫌でも震えが伝わってきて、鎮め方など分からない自分自身の変調に焦りは増すばかり。
それを紛らわせる為か、無意識にルージュで塗られた唇を噛み締めた。
チロリと覗かせた舌で唇を彩るそれを舐めると、人工的でべとりとした感触が気持ち悪くて顔を顰める。
一体どうしたというのだ、今日の私の体は
自分の思い通りにならない体を叱咤すれども、その効果は僅かもなく、舌打ちしようとするが舌も動いてはくれなかった。
その時、自分と外界を隔てていた木の扉が控えめに鳴らされて、カガリは弾かれたように顔を音のした方向に向けた。
「入れ」
この扉の向こうにいる相手に、間もなく国の代表になる自分の震えそうになる声を聞かせたくはないので、固い声を作って
投げつけた。放った先の扉が開いて、部屋に入ってきたのはカガリがよく知っている男だった。
知っているが故に今の自分を一番見せたくはない相手だった。
「そろそろ時間です、代表」
呼び慣れ、呼ばれ慣れた互いの呼び名を変える事を選んだのは他の誰でもない自分達自身だ。
だが今、彼に『カガリ』でなく『代表』と呼ばれた事が無性に哀しい。
ぐちゃぐちゃな感情の渦はカガリの中でその規模を広げて、熱い塊となって喉からせり上がってくる。
冷静な自分は、泣いてどうなる、堂々としていろ、と自らを叱咤する。
けれど耳元で誰かが囁くのだ。本当に私で務まるのか、偉大な父の背中に追い付けるだろうかと。
「逃げたいのですか?」
はっと顔を上げると、まるで心を見透かされるような静かな眼差しに囚われた。
「何を、馬鹿な事を・・・」
喉が渇いて咄嗟の事に言葉が出ない。
「申し訳ありません。失言でした。ですが今の貴女を見ているとこれからのご自分の立場を恐れていらっしゃるように見受け
られましたので・・・・」
「もしや前代表の偉大さに竦んで、逃げたい、とお考えなのかと」
その一言に体が一瞬で熱くなった。
「そんな訳あるか!この国はお父様達が命を賭してまで守った理念を掲げる国だぞ!それに私はお父様の娘だ、逃げる
なんて馬鹿な真似するものか!!」
声を荒げて目の前の相手を睨みつける。いつの間にか体の震えは治まっていた。
荒くなった呼吸を落ち着けようとしていると、先程までとはまるで正反対の優しい言葉が掛けられた。
「それでこそカガリだ」
アスランは絨毯の上を進み、カガリの前に立つと震えの止まった指先にそっと唇で触れた。
そのままその手はスーツに包まれたアスランの胸に導かれる。
「忘れないでほしい、カガリ。ウズミ様の願った未来も、そして俺の想いも、君と共にある事を」
布地の上からでも分かる規則正しい命の音に、心の波が凪いでいく。
「いつでも君の中にいるよ」
だから
「大丈夫だ」
体に沁みこむアスランの言葉に余計な力が抜ける。そうだ、私は一人ではない。
緩い拘束を解かれた腕は胴の横に戻り、自由になった指は固く拳を作った。
真っ直ぐに正面を見たカガリは護衛の男の横を通り過ぎると、靴音を響かせて新しい世界へ一歩を踏み出した。
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