誰かが言っていた。
恋をすると人は美しくなる、と。



                   白と黒



それは古いサイレントムービーだった。
運命的な出会いを果たした一組の男女の物語。

寡黙な青年と恋をまだ知らない少女が出会って動き出す二人の心。
出会って、惹かれて、自分に芽生えた名も知らぬ感情に戸惑って。
けれど次第に近づく二つの恋心。
揺れ動く感情を主軸に物語は進む。
そして。





シルクグローブに包まれた手が上等なドレスの裾をきつく握り締めた。
その手が震えているのが分かる。
そんなにきつく握ると皺になるのではないか、と頭の片隅でふと思うが、それよりも見ているこちらがもどかしく思うほどに男を想う女の気持ちに胸が締め付けられた。
何かを言いたげに薄く開かれた口は戦慄いただけですぐに閉じてしまう。

微かに流れていた音楽が止まる。


一度目を瞑った女が意を決したように形の良い唇で何かを紡いだ。


ほんの少しの静寂。
そうして再び流れ出すスローミュージック。
澄んだピアノの調べに重なるのは微かな弦の旋律。
女の言葉を受け取った男は数度の瞬きの後、とても柔らかく目を細めた。
ゆっくり瞠目した後、何も言わず目の前の女の腰を自らに引き寄せる。
言葉よりも先に手が出るのは自分がよく知っている男に似ている、と思った。
胸に収めた女の髪を愛おしそうに手で梳いて、その一房に恭しく口付ける。
耳元で何事かを囁くと女は潤んだ目を瞬かせて男を見上げ、見る者を魅了する美しい笑顔を男に向けた。
それはまるで固く閉ざされていた蕾が花開くかのような。そんな印象さえ与える笑顔だった。


恋をすると人は美しくなる。
そんな事を誰かが言っていた。
幼かった自分はそれを笑ったものだ。
馬鹿馬鹿しい。それだけの事で変われるものか、と。
あの頃は誰かを思っただけで心が乱れる激情も、切なさも、そして甘さも知らなかった。
そしてその甘さに自分が身を浸す事になるなどとは想像もしなかった。
けれど、今は。
想い人を想って憂い、頬を染める女を美しいと思える。
その姿を自らに置き換える事さえしてしまう。
男と出会い、少女の殻を脱ぎ捨てて見事に羽化した女は、時々息を呑むほどに美しく映った。
ほんの少しの手の動き、身のこなし、瞳の動き。
彼女が愛する人を想い溜息をついただけで、モノクロームの世界が一瞬で鮮やかに色づいた。


男の長い指が女の頬を包み込み唇を指でなぞると、その感触に女は恥ずかしげに視線を外す。
そんな女の様子に男は笑みを深くし、目を合わせようとしない女に囁きかけた。

「こっちを見て」

男が囁いたのはそんな台詞だったろうか。
口の動きだけでは何を言ったか分からない筈なのに何故か分かるような気がした。
女は逸らしていた瞳をそろそろと戻し、赤い目元はそのままに男と視線を合わせた。
熱を帯びた視線が交差し、場に静寂が満ちる。
実際には数秒でしかないその間がひどく長く感じる。



男は女の腰に絡めた腕に力を込め、女はおずおずと広い背中に腕を回した。

キスをするのだろう、と漠然と思う。

唇が近づく。互いの睫が見えるほどに。
二人の距離がなくなるその時、明るかった視界が急に暗くなった。



男女の恋の結末は、視界を覆う男の体と唇に感じる熱の所為で見ることは叶わなかった。


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